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福岡地方裁判所 昭和51年(行ウ)14号 判決

原告 小野緑也

被告 北九州市長

主文

一  被告が昭和五一年一月三一日原告に対してなした違反建築物に対する措置命令を取消す。

二  訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、自己所有の北九州市八幡西区下上津役一八五八番三四の土地(以下本件土地という。)の南側の高さ約六メートルの傾斜のり地に、のり下二・五メートルの石垣部分に継ぎ足して高さ三・四メートルの鉄筋コンクリート擁壁(以下本件擁壁という。)を築造したところ、被告は、昭和五一年一月三一日付で、本件擁壁は建築基準法六条、二〇条に違反しているとして、同法九条一項に基づいて、本件擁壁の除却を命ずる旨の違反建築物に対する措置命令(以下本件措置命令という。)をなした。

2  しかしながら、本件措置命令は以下に述べるとおり違法もしくは著しく不当な処分であつて取消しを免れない。

(一) 本件擁壁の確認申請について

(1) 原告は、本件土地南側傾斜地の土砂崩れの危険を防止するため、昭和五〇年三月初め頃、コンクリート擁壁の築造を企図し、北九州市八幡西区役所に工事届出について教示を受けに行つたところ、同区役所工務係は本件土地は指定区域外であるから届出は不要である旨教示したので、原告は、同年五月二六日本件擁壁の築造工事に着手したが、工事中途の同年六月二〇日頃本件土地南側下に居住する訴外俵時夫らより、本件擁壁により日照権を侵されるとの苦情の申入れがあつたため、同人らの要望により迷惑料につき協議したが話し合いがつかず、同人らより本件擁壁の取壊し要求がなされるに至つた。

(2) そこで、原告は、昭和五〇年七月一日再度八幡西区役所工務課に赴き、本件擁壁の現状を説明し、法律的に故障があるかどうか質したところ、本件工事には届出、認可等の手続は不要であるが特別指導をしてもよい旨の回答があつたので、右特別指導を要請したところ、担当係員は右指導の結果問題はないとのことであつた。その後、前記俵らより市の宅地造成係の方に苦情の申入れがなされた模様で、市宅地造成係の担当者が現場を見分に来たが、その時も右担当者は本件擁壁工事につき届出、認可等の手続は不要であり現状では違法とは言えないが、本件土地南側下の居住者より苦情の申出があるので話し合いのうえで解決するようにとの勧告をした。

(3) その後、原告は前記俵らと金銭的な解決をはかるべく協議を続けたが、折合いがつかず、昭和五〇年七月中旬頃、同人らより本件擁壁が危険であると主張されるに至つたので、原告は本件擁壁の施工業者である有限会社松崎組に強度計算をするように要請したが、松崎組は既に工事の大半を終えていたため、強度計算をしないまま本件擁壁の工事を完了した。

(4) 原告は、昭和五〇年八月二九日北九州市建築審査課において、本件擁壁工事については確認申請が必要であり、その確認申請に際しては強度計算書を添付しなければならないとの説明を受けたので、原告より前記の経過を説明したところ、事後でもよいから確認申請をするように指示されたが、当時強度計算については専門家に依頼中であり、その計算書が完成するのは一ヶ月後であつたため、原告より猶予を要請し、その了解を得た。

その後、昭和五〇年一〇月二日及び同月二一日の二回にわたり、北九州市建築局より建築基準法第六条一項の確認申請につき是正命令を受けたが、前記強度計算書が完成していなかつたのでそのつど担当者の了解を求めたところ、市としては形式上是正命令を出さざるを得ないので至急確認申請書類をそろえるようにとの指導を受けた。

(5) 原告は、昭和五〇年一〇月二二日本件擁壁につき工作物確認の申請書を提出したが、同年一一月二三日被告より本件擁壁が建築基準法に適合するかどうか決定することができない旨の通知を受けたので、その理由を問い合わせたところ、市の担当者は、本件擁壁の下の地質が不明なため審査できない旨説明したので、原告は直ちに地質調査にとりかかる旨申し出たところ、市の担当者も至急右調査をするように指示した。

(6) 前記のような経過の中、原告は前記俵時夫及び同人の代理人と称する北九州生活互助会本部役員らから、迷惑料を支払うよう要求されていたが、その要求が過大であるため協議成立に至らななかつたところ、俵らは北九州市建築局担当者に対し、執拗に本件擁壁の除却命令を出すよう要求するに至り、右担当者は原告に対し俵らと協議し解決することが建築確認の前提であるかの如き言動をするようになつた。

(7) ところが、被告は昭和五〇年一二月三日原告に対し違反建築物に対する措置命令の事前通知をなしたので原告は直ちに公開聴問の請求をなすとともに、意見書を提出し、前記地質調査の結果をまつて結論を出すように申し出たが、被告は同月二六日聴問会を開催した後、右地質調査の結果を検討することもなく、昭和五一年一月三一日付をもつて本件措置命令をなした。

(8) 以上の次第であつて、原告の工作物確認申請が本件擁壁工事の完了後になされたのは、北九州市職員の手続教示の誤り等があつたためであり、原告は確認申請の手続を全く怠つたものではない。本来、建築確認等の事務を執行する行政庁は、住民に対し法規の遵守につき適切な指導、助言をなすべき行政上の義務を負担しているところ、その指導、助言を誤つたためにこのような事後申請という結果を招来したのであるから、これをもつて確認申請がなされなかつたということはできない。

(二) 本件擁壁の安全性について

(1) 本件擁壁の構造については、その完成後専門家によつて広範な検討が加えられ、その安全性が確認されている。

(2) 本件工作物の基礎部分の地質を調査した結果、その基盤は岩盤であることが判明し、沈下等のおそれはないことが明らかとなつた。

(3) 以上のとおりであつて、本件擁壁は自重、積載荷重積雪、風圧、土圧及び水圧並びに地震その他の震動及び衝撃に対して安全な構造であることが明らかであり建築基準法二〇条に適合しているというべきである。

(4) しかるに、被告は、本件擁壁の安全性について十分な調査もせず、擁壁下の住民らの申入れに応じて本件措置命令をなしたのは、明らかに審査不備または事実誤認に基づくものである。

また、建築基準法の立法目的は同法一条に明記されているとおり、工作物を築造しようとする住民の権利と公共の福祉とを適合させることにあるのであるから、本件擁壁を築造することによつて自己の所有地を有効に使用しようとする原告の財産上の権利をたやすく無視することは許されないところ、同法九条一項に定められた措置命令には本件のような除却命令のほかに改善、修補等の是正措置を定めているのにかかわらず、被告が直ちに除却命令を発したのはその裁量を著しく誤つたものである。

3  以上述べたとおり、本件措置命令は違法であるから、取り消されるべきである。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

(請求原因に対する認否)

1 請求原因1は認める。

2 同2(一)のうち、

(一) (1)及び(3)は知らない。

(二) (2)のうち、昭和五〇年七月一日頃原告が八幡西区役所工務課をたずねたこと及び俵時夫らより通報があり、担当者が現場を見に行つたことを認め、その余を否認する。

(三) (4)のうち、昭和五〇年九月一日北九州市建築局指導部審査課において、本件擁壁工事については確認申請が必要であること及び右確認申請に際しては構造計算書が必要であることを説明し、至急確認申請書を提出するよう指示したこと、北九州市建築局は同年一〇月二日、同月二一日の二回、建築基準法六条一項の確認申請につき是正勧告をしたことを認め、その余を否認する。

(四) 同(5)のうち、昭和五〇年一〇月二九日北九州市建築主事宛に原告から工作物確認申請書が提出されたことは認め、その余を否認する。

(五) 同(6)のうち、右俵らは北九州市建築局担当者に対し、執拗に本件擁壁の除却命令を出すよう要求するに至り、右担当者は原告に対し右俵らと協議し解決することが右建築確認の前提であるかの如き言動をするようになつたとある部分を否認し、その余は知らない。

(六) 同(7)のうち、被告が昭和五〇年一二月三日、違反建築物に対する措置命令の事前通知をなし、原告から公開聴聞の請求がなされ、同月二六日聴聞会を開催したこと、同年一月三一日本件措置命令を発したことを認め、その余を否認する。

(七) (8)を否認する。

3 同2(二)を否認する。

(被告の主張)

1 建築基準法六条違反反について

本件擁壁は既設擁壁(高さ二・五メートル、延長約三八メートル)の上に三・四メートルの鉄筋コンクリート造擁壁を継ぎ足して築造されたものであるから、建築基準法施行令一三八条一項五号に規定する工作物に該当し、同法八八条により同法六条一項の規定が準用される。したがつて、本件擁壁の建築については、工事着手前に確認申請書を提出し、建築主事の確認を受けなければならないのに、原告はこれを怠つたまま工事を完了させたもので、本件擁壁が違反構築物であることは明らかである。

2 建築基準法二〇条違反について

右のような本件擁壁の構造に照らし、同法二〇条一項に規定する構造耐力については既設擁壁及び本件擁壁を一体の擁壁(高さ五・九メートル)として判断しなければならない。

ところで、既設擁壁は宅地造成等規制施行令に規定する宅地造成に関する工事の技術的基準に基づき、高さ約二・五メートルの石積擁壁として施工されたものであり、それ以上の構造耐力を備えたものではないから、既設擁壁の上部に本件擁壁を継ぎ足す場合、既設擁壁の控え長さ、根入深さ及び裏込め、栗石部分等を補強する必要がある。

しかるに、本件擁壁の築造にあたつては右のように既設擁壁の補強は全くなされておらず、既設擁壁の安全性については何ら考慮されていないのであるから、既設擁壁及び本件擁壁を一体の擁壁として判断すれば、建築基準法二〇条一項に規定する構造耐力上の安全は確保されているとはいえない。

3 除却の是正措置の必要性について

(一) 既設擁壁及び傾斜地は、昭和四五年六月頃、旧住宅地造成事業法に基づき施工されたものであつて同法による竣工検査も受けているのであるから、本件擁壁を除却して原状に復しても土砂崩れ等のおそれはない。

(二) 本件擁壁及び既設擁壁の安全を確保するには既設擁壁の補強が必要であるが、本件擁壁工事が完了してしまつた以上、本件擁壁を除却したうえで既設擁壁を補強する以外に方法はない。

(三) 本件擁壁下には四軒の民家があり、既設擁壁及び本件擁壁の一部でも崩壊した場合、直ちに人家人命に危険が及ぶ状態にあるから、公益上の見地からも本件擁壁を除却する必要がある。

よつて、本件措置命令には何らの違法はない。

第三証拠〈省略〉

理由

一  請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二1  原告が昭和五〇年七月一日頃、北九州市八幡西区役所工務係を訪ねたこと、訴外俵時夫らの通報により北九州市の担当者が本件擁壁の工事現場を見に行つたこと、原告が北九州市建築局指導部審査課から本件擁壁工事については確認申請が必要であることを知らされ、構造計算書を添えて至急に確認申請書を提出するように指示されたこと、原告が同年一〇月北九州市建築主事に工作物確認申請書を提出したことは当事者間に争いがない。

2  いずれも成立に争いのない甲第二、第六、第一三号証、乙第六ないし第九号証、原本の存在及び成立ともに争いのない乙第一二号証、原告本人尋問の結果により真正に成立したと認められる甲第三、第五号証、証人松崎照美、同俵時夫の各証言及び原告本人尋問の結果を総合すると次の事実が認められる。

(一)  原告は、昭和五〇年二、三月頃、本件擁壁の築造を企図したが、本件土地を買い受ける際に受領した物件説明書にのり面石積一メートル以上の工事は市の許可を要する旨の記載があつたのを記憶していたため、同年三月初め頃北九州市八幡西区役所工務課に赴いて擁壁工事に関する届出等の手続について教示を求めたところ、届出は不要である旨の回答を得たので、建設業者訴外松崎照美に本件擁壁の築造を依頼し、同人は同年五月一八日頃本件擁壁の築造工事に着手した。

(二)  その後、原告は二メートル以上の擁壁を築造する場合は届出を要する旨を人から聞いたので、同年七月頃再度八幡西区役所工務課に行き右の点を質したところ届出は不要であるが工事につき指導をしてもよいとのことだつたので、原告から依頼して同区役所の工務課員に本件擁壁工事を見に来てもらつたが、問題はないということで特段の注意、指導等は受けなかつた。また、更に念のため、市の開発課に問い合わせ、同課の紹介により宅地指導課にも訊したがいずれの係官も格別の許可、届出は不要である旨を述べた。

(三)  ところが、本件擁壁工事の進行中、本件擁壁下の家屋に居住している訴外俵時夫から本件擁壁工事に対し強い苦情が出され、同人らから北九州市に対し本件擁壁工事の是正につき申入れがなされたところから、本件擁壁工事完了後の同年八月末頃に至り、原告は北九州市建築局指導部審査課より連絡を受け、始めて本件擁壁工事については確認申請が必要であり、かつ右申請には構造計算書を添付しなければならない旨説明され、速やかに右申請書等を提出するように指示されたので、本件土地の売主である訴外日本電建から紹介された山村という建築士に本件擁壁の構造計算を依頼し、その完成を待つて同年一〇月二九日頃本件擁壁についての工作物確認申請書及び構造計算書を北九州市建築主事に提出した。

3  本件擁壁は高さが二メートルを越えるから、建築基準法八八条、同法施行令一三八条一項五号、同法六条一項により、その築造工事に着手する前に確認申請書を提出して建築主事の確認を得なければならないところ、原告が右に違背したことは明らかである。

しかしながら、右2記載の認定事実によると、原告は法令に則つて本件擁壁工事を行なう意思を有していたことは明らかであり、それにもかかわらず原告が本件擁壁工事完了後にその確認申請をせざるを得ないこととなつたのは、工作物確認申請についての北九州市側の極めて不適切な指導が原因になつているといわざるを得ず、確認申請懈怠の責を原告のみに負わせることはできない。

ところで、建築基準法九条一項に基く措置命令は、後述のとおり違反の態様、程度に応じた内容のものでなければならないところ、同法六条一項違反の点については右認定のような事情があるのであるから、右違反があるからといつて直ちに本件擁壁の除却命令を発するのが相当でないことは明らかであつて、本件措置命令が適法であるか否かの判断については同法二〇条違反の点を検討しなければならない。

三1  証人松崎照美の証言により真正に成立したと認められる甲第一号証の一、二、成立に争いのない乙第一〇号証、証人松崎照美の証言、原告本人尋問の結果及び検証の結果を総合すると、本件擁壁は本件土地南側ののりに既に築造されていた高さ二・五メートルの石垣(以下既設石垣という。)の上に継ぎ足してたてられた高さ三・四メートル、長さ約三八メートルの鉄筋コンクリート製の擁壁であること、本件擁壁の南側ほぼ直下には訴外俵時夫ら三軒の住宅があること、本件擁壁築造工事を施工した訴外松崎は擁壁工事につき専門的な知識、経験を有する者ではなく、本件擁壁の構造については強度計算もせずに、いわば我流の勘によつて設計施工したことが認められる。

そうすると、本件擁壁の規模、形状、環境、築造過程等からみて、その安全性については慎重な判断が必要であるといわなければならない。

2  そこで、本件擁壁の安全性について検討するに鑑定の結果によると、既設石垣は工法としては高さ三メートル程度の普通の土留に用いられる規模のものであるところ、これを補強することなしにその上に本件擁壁を築造したために、既設石垣脚部の支圧力が極めて大きくなつていること及び本件擁壁には五つの控壁が取り付けられているが控壁に踵板がないため、回転、移動に対して埋戻し土重量の効果が得られずに不利であること等の構造上の難点があり、その結果、転倒については既設石垣脚部において常時、地震時ともに必要な安全率を若干下回り、水平運動については常時は問題がないが、地震時は既設石垣の脚部につききわどい安全率を示すこと、他方曲げ応力、沈下、変形については、格別の心配はないことが認められる。もつとも、原告本人尋問の結果並びに右により図面については真正に成立したこと及び添付写真については本件擁壁を撮影したものであることがそれぞれ認められる甲第八号証、第九号証、第一一号証によると、本件擁壁の底部の実際の長さは鑑定の前提となつた図面に記された長さよりも北側に約四〇センチ長く、控え壁の下部も実際は鑑定の前提となつた図面よりも若干厚くなつていることが認められるので転倒及び水平運動についての安全率は鑑定の結果よりも若干上昇することが予想されるけれども、それがどの程度であるかを判断すべき資料はない。

なお、前掲甲第三号証記載の構造計算は本件擁壁がすべての面で安全であるとの結果を示しており、同号証の内容自体に乙第九号証及び原告本人尋問の結果を参酌すると、甲第三号証を作成した山村某なる人物が専門の技術者であることは認められるけれども、同人がいかなる経緯で甲第三号証を作成するに至つたかが判然としないので、同号証中本件擁壁の安全性に対する判断部分はにわかに採用し難い。

以上のとおり、本件擁壁には前記のような構造上の難点があり、現状のままでは安全性が十分に確保されているとはいえず、特に本件擁壁の南側ほぼ直下に人家の存在することを考慮すると、本件擁壁をこのまま放置しておくことは妥当でないが、これを直ちに除却しなければならない程の危険性を有するものであるとは認められない。

四1  本件擁壁が建築基準法第二〇条に違反する理由として被告が主張するのは、要するに、既設石垣は宅地造成等規制法施行令に規定する宅地造成に関する工事の技術的基準に基づき高さ三メートルの石積擁壁として施工されたものであり、それ以上の構造耐力を備えたものではないのであるから、本件石垣の上部に本件擁壁を継ぎ足す場合には既設の本件石垣の控え長さ、根入深さ、裏込め、栗石部分等を補強する必要があつたのにかかわらず、本件擁壁の築造にあたつては右のような本件石垣の補強は全くなされていないということであり、また本件擁壁の除却の是正措置の必要性の理由は、本件擁壁及び既設石垣の安全を確保するには既設石垣の補強が必要であるところ、既設石垣を補強するには本件擁壁を除却した後、既設石垣を補強する以外に方法はないというものである。

確かに、既設石垣は本件擁壁及び埋土を支えるには強度が不十分と認められることは前記のとおりであるが、それだからといつて直ちに本件擁壁の除却まで命ずる必要があるかどうかは更に綿密な検討を要するというべきである。しかるに、右に述べた被告の本件擁壁を除却する必要性の理由はあまりにも簡単で形式的に過ぎるといわざるをえず、また、前掲乙第九号証によると、本件措置命令の基礎となつた既設石垣の構造耐力についての判断は、本件擁壁及び既設石垣の設計図面を資料としてなされたものに過ぎず、本件擁壁の実態を具体的に調査し、又は詳細な構造計算を行う等の検討を経たうえで除却命令を必要とするとの結論に達したものではないことがうかがえる。

2  ところで、建築基準法の立法目的は、建築物の敷地、構造等に関する最低の基準を定めて、国民の生命、健康及び財産の保護を図り、もつて公共の福祉の増進に資することにある(同法一条)のであるから、同法による私権に対する規制は右目的を達するために必要かつ合理的であると考えられる範囲内のものでなければならないというべきところ、同法九条一項は違反建築物に対する是正措置として除却のほかに改築、修繕、模様替等の方法も定めているのであるから、命ずべき是正措置の内容は、合理的な範囲内で行政庁の裁量に委ねられているとしても、当該違反の態様に応じこれを是正するために必要な範囲内のものであつて、命令の相手方にとつて損失の少ない方法が選択されるべきである。特に、本件擁壁はその規模からみてこれを除却するには大がかりな工事と多額の費用がかかることは容易に予測されるところであるから、被告としては安全性が確認されていないからといつて軽々に除却命令を出すべきでなく、本件擁壁の欠陥の態様、程度等をできる限り詳細に調査し、いかなる是正措置が最も適当であるかを十分に検討したうえで措置命令を発するべきであつたといえる。

3  そうすると、前認定のとおり、本件擁壁は直ちに除却を必要とする程の危険は認められないのであるから、その安全性を十分なものにするための補強手段の有無が当然検討されてしかるべきものというべきである。例えば、証人権藤光俊の証言及びこれにより真正に成立したものと認められる甲第四号証によれば、本件擁壁の補強手段の一つとしてアースアンカー工法があることが認められるところ、本件擁壁の周囲の状況から右工法による補強工事の実施が可能であるならば、右は本件擁壁の転倒等の危険防止のため有効な改善措置ということができるであろうし、仮に甲第四号証の示すアンカー工法が実施困難であるとしても、同号証及び検証の結果によれば、本件擁壁の背後にはかなり広い余地があり、かつその土地の深さ約三・五メートル以下は岩盤であることが認められるのであるから、右岩盤に支持柱を打ち込みこれと本件擁壁とを連結するという方法での補強工事が有効であるかどうかは、少くとも検討に価いするといえよう。このほかにも、既設石垣の強度の不足を補う何らかの有効、適切な補強手段がないとは言い切れないばかりでなく、更に確実な方法として、本件擁壁の上部を適切な高さまで一部除去したうえその部分を緩やかな傾斜地とすることによつて既設石垣の脚部への土圧力を軽減することが考えられる。以上いずれの方途をとつても、本件擁壁を除却するのに比して原告の被る損失が著しく緩和されることは明らかである。

してみると、被告としては、前記のような理由によつて軽々に除却命令を発することなく、本件擁壁の安全性を確保する手段についての検討を十分に行つたうえ、本件擁壁の欠陥に即応した改善措置を命ずるべきであつたというべきであり、右の点の検討をなさずに直ちに本件擁壁の除却命令を発したのは、本件擁壁の違反の態様と程度との間の権衡を失し、違反の是正に必要な範囲を越え、原告に対し必要以上の損害を与えるものであつて、本件措置命令は、被告の裁量権の範囲を逸脱した違法な処分であるといわざるをえない。

よつて、原告の本訴請求を認容し、訴訟費用の負担につき行訴法七条、民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 南新吾 児嶋雅昭 井上哲男)

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